| ギリシャ悲劇編 | エウリピデス「メディア」 |
| フランス古典劇編 | ラシーヌ「フェードル」 「アンドロマケ」 / コルネイユ「ル・シッド」 |
| フランス近代劇編 | ミュッセ「ロレンザッチョ」 / ユゴー「エルナニ」 「ルイ・ブラス」 サルドゥ「トスカ」 「フェドラ」 / デュマ・フェス「椿姫」 / メーテルリンク「ペリアスとメリザンド」 |
| フランス現代劇編 | ジロドゥ「オンディーヌ」 |
| イプセン編 | 「野鴨」 「ヘッダ・ガブラー」 「幽霊」 「ペール・ギュント」 「ジョン・ガブリエルと呼ばれた男」 「ちっちゃなエイヨルフ」 「民衆の敵」 「ロスメルスホルム」 「ブラン」 |
| ストリンドベリ編 | 「令嬢と召使 」 「死の舞踏 」 「債鬼」 |
| オリジナル台本 | 「宋家の三姉妹」 「贋作サラ・ベルナール」 「モンテクリスト伯」(デュマ原作) |
ジョン・ガブリエルと呼ばれ、国中からあがめられた男が、
一瞬のうちに奈落の底へと転がり落ちる。
波が砕け散る断崖絶壁の雪に閉ざされた氷の牢獄で、
その男は復活を心に期し、胸をたぎらせている。
人生とは夢を見続けることだ。
たとえ最悪の中にあっても、最後の瞬間まで夢を見続けたら、
それは人生の勝利者ではないだろうか。
ジョン・ガブリエル・ボルクマンは激しく夢を見ながら、
闘いながら、死んでいった。
イプセンの「民衆の敵」はエンターテイメントとして申し分なく、
コメディとして最高で、人間ドラマとして一級で、なおかつ政治劇、
社会ドラマとしても極めて深く、本質的である。
人間の愚かさ、醜さ、いい加減さをあますことなく描き尽くし、
なおかつ突き放していない。
そしてそのどうしようもなさからこぼれおちるのは、
人間という生き物の魅力である。
生きているということは、
嘘をつき、間違いを犯し、罪を犯し続けることだ。
イプセンはそのことを厳しく断罪しながら、少しも否定はしていない。
強く告発しながら、容認してもいるのだ。
強そうで臆病、望みは高いが平凡、気位が高いくせに嫉妬深い・・・
というのが、これまでのヘッダという女性についての解釈である。
そういうふうにヘッダは、これまで貶められてきたのだ。
それに対して、こういうふうに言いたい。
ヘッダは天然なのだ。
ライオンのように強く、気位が高く、臆病で、嫉妬深いのだと。
ヘッダはビュティー・モンスターである。
中国に三人の姉妹がいた。
一人はお金を愛し、一人は権力を愛し、一人は中国を愛した。
激動の時代を本音で生きた伝説の三姉妹。
それぞれ違った人生を強烈に生き抜いた三人が雲の上で再会する。
お互いの人生を辛辣に振り返りながら、お互いに強い愛情を抱きあう。
このドラマは人間の運命を描いている。
空を飛ぶ翼を、銃弾で撃ち抜かれ、二度と飛べなくなったノガモとは、
夢見る力を、現実という銃弾で粉々にされしまった人間のことである。
それでも人間は生き続ける。
ウソをつき、間違いを重ね、罪を犯しながら・・・
しかしイプセンはその人間を批判しているわけではない。
むしろ慰め、励ましているのだ。
この作品は不思議だ。
しかし難解というわけではない。
どの瞬間も濃密でスリリングだ。
素晴らしく豊穣なお酒に酔う気分といえばいいのだろうか。
酔い心地は爽快である。
心の風景が醸し出す世界への旅。
その旅のプロセスの中で、イメージが燃やしつくされる。
見事なる浄化。
イプセンは心の浄化槽である。
「ロスメルスホルム」のヒロイン、レベッカはイプセン劇の一つの到達点ではないだろうか。
メディアは子殺し、エレクトラは母殺し、そしてレベッカは詐欺師にして、殺人者、また父親と姦淫を犯した女である。
ギリシャ劇の伝説のヒロインと肩を並べるべく、イプセンはありとあらゆる人間の罪をレベッカに負わせている。
そしてレベッカの中でその罪のすべてが浄化される。
そういう意味でレベッカは、人間のありとあらゆる罪を背負って十字架についたキリストでもある。
レベッカは演劇史上最も偉大な精神を持ったヒロインと言えるだろう。
令嬢とその召使の危険な関係。
令嬢ジュリーは、彼女の望み通りにどんどん堕ちて行く。
バーナード・ショーはストリンドベリをシェイクスピアに近い作家と語っている。
それは内的な心のイメージによって会話が展開していく力強さを言っているのだと思う。
まるで夢の連なりのように、言葉が連なっていく。
内面と外面が引っ張り合い、客観と主観が入れ替わり、現実と非現実が相互的に作用しあっている。
つまり俳優の内面を侵食し、かきたてる、そんな重層的な命を持った言葉なのだ。
ストリンドベリの芝居は扉を開いた途端、観客にイメージの嵐が襲い掛かってくる。
「タイトルロール」というのは映画とか舞台で、主人公の名前がそのままタイトルになってしまうことである。
例えば、「椿姫」はオペラで有名で、椿姫というのはその女主人公の呼び名である。そして、多くの人は「椿姫」の作品の内容も、椿姫という女性のことも知らないが、椿姫という名前だけは、一人歩きし、どこか馴染みがある。
そして今回の企画では、その魅力の実体を、読み物として再現してみたい。
とにかく強者揃いである。
誰も彼もが桁外れのスケールの困った女たちばかり。
我が儘、迷惑、身勝手、まさに彼女たちの頭の中には巨大な思いこみと妄想の嵐が吹き荒れ、周りの人間はみんな吹き飛ばされてしまう。
彼女たちは最終的には自分を選ぶ。家庭や親や夫や子供、社会や職場、男や恋愛よりも、最後の最後には結局自分自身を選択してしまう。
周りの迷惑よりも、自分自身が大事である。開き直ったら女は怖い、その破壊力はとても男の比ではない、その実践的な証明が彼女たちである。
演劇史上最強にして最悪の悪女としてあまりにも有名。
母親が自分の裏切った夫への復讐に自分の愛児を殺害した、それがメディアの起こした事件である。
王の娘として生まれ育ったメディアは、心に起ったことを我慢することを知らない。
そしてメディアは、いざとなったら女はどんなに怖いかを男の記憶に永遠に刻みつけた女である。
すべての芸術の源は、男と女の戦いである。
その記念すべき第一ラウンドがこの「メディア」、これを読まずに芸術は語れない。
「メディア」と並ぶ、女優にとっての最大のタイトルロール。
しかし強烈である。これほど強烈な恋が果たして存在するのか。
演劇史上最も過激な恋がここにある。
恋をするならここまでやり尽くせ。フェードルは恐怖のストーカー女である。
片思いの相手をとことん追いつめ、迷惑の限りを尽くす。
そして最後には、その想いは女を竜に変え、愛する余り、男に無理心中を。
しかしここには完全燃焼の命がある。
この世に存在したのであれば、このように激しく生き、燃え上がり、燃え尽きたい。
それはある意味で、人間の命の理想であり、憧れと言えなくはない。
これほど有名なタイトルロールはないと言ってもいいだろう。
もはや椿姫は、芝居やオペラの世界を離れて世間一般に流布している。
悲恋のヒロインと言えば、椿姫である。
確かに泣ける話である。
涙、涙、涙、どうかハンカチをご用意を。
しかしこの椿姫、ウエットさはどこにもない。
格好いい男っぽい女、ハンサム・ガールである。
無愛想で不機嫌な美女――恋なんて信じない、命なんていらない。
愛されたい、理解されたいという想いを振り切って、孤独であることを恐れず、自分の人生を突っ走る。
椿姫ことマルグリットは、強い女である。
現代の女性の強い共感を呼ぶキャラクターなのだ。
トスカから何を連想するだろうか。
歌姫、情熱の女と言ったところだろうか。
自由奔放、我儘いっぱいの女王様。
ここにはキラキラと輝く強烈な命がある。
その命を、ハラハラドキドキの見せ場見せ場の連続のドラマに投げ込む。
そしてトスカを追いかけるスカルピオ男爵の見事な悪役振り。
二人の対決こそ、演劇の醍醐味である。
観客を喜ばせ、熱狂させる、まさにウエルメイド・プレイの典型がここにある。