
| 上演企画書 輝かしい命を持った13歳が自らの手でその命を絶った 「野鴨」 ヘンリック・イプセン作 空を飛ぶ翼を、銃弾で撃ち抜かれ、二度と飛べなくなったノガモとは、 出演 石田えり イントロダクション イプセンの「野鴨」ほど、悲惨で残酷でグロテスクな物語はないように思える。そして同時に、優しさと美しさと厳かさに包まれている。 野鴨とは、一人の男に粉々にされてしまった一家を象徴したイメージである。 それをイプセンはこのように書いている。 「野鴨が突然、銃で撃たれる。 野鴨はすぐに真っ直ぐに水底に潜る。 潜るだけ潜って、藻や水草にかじりつく。 そこが野鴨の死に場所で、死を決意した野鴨はそうやって二度と水上には浮かび上がってこないのだ。 しかしそこにおせっかいな犬が、その野鴨を水底まで追いかけ、咥えて上がってくる。 そして、傷ついた野鴨は、家畜のように餌を与えられ、いつのまにか野生を失い怠惰な生き物と成り下がっていく」 今回のコンセプトは、そのイメージをそっくりタニノクロウに渡し、それが彼の内部でどう化学変化を起こすかを試してみるというものである。 タニノクロウは庭劇団ペニノなる不思議な劇団の主宰者である。 タニノクロウは、日本の演劇の中にあって、間違いなく国際級の才能を持つ演出家である。 夢見る力という点において、彼の頭脳におけるイメージの展開力は、ロバート・ウィルソン級であると言っておこう。 彼はきっとイプセンの書いた、悲惨で残酷でグロテスクな「野鴨」という物語を、果てしなく美しく優しく厳かに描き出すことだろう。 タニノクロウとイプセン ある時、庭劇団ペニノの「アンダーグランド」という芝居を見た。 不思議な庭に迷い込み、不思議な幻影をかいま見る、そんな舞台だった。 見終わって異様に興奮した。こんなことは、そんなにはないことである。 下北沢にあるスズナリという狭い劇場に、ジャズのトリオが生演奏をしている。そこに変に生き生きとした、小人の大人がいて、遊び戯れている。一方で、強大な男が運び込まれ、数人の女たちによる手術が始まる。その手術はどんどんとエスカレートし、収拾がつかなくなっていく。小人の男は、水中眼鏡に足ひれをつけて、そこを自由に出入りして、時々、楽団に指示を与える。 言ってしまえば、舞台はそれだけのことである。 テーマもない、ストーリーもない、おそらく演技もなければ、言葉もない。 しかし濃密で官能的な時間があった。 そこにあるのは、イメージだけである。 それは彼にしか観ることの出来ない夢だった。 イプセンというと、社会劇であり問題劇であり、日本の新劇のシンボルのように思われるが、実は新劇的なリアリズムとこれほど遠い作家はいないのではないだろうか。 イプセンは自分と向き合い、人間と向き合って生きてきた人だと思う。 そしてせっせとその生涯をかけて、演劇という方法で、人間の心の中で起こることを描き続けてきた。 イプセンを読み進んでいくと、あまりにも全てが曖昧なことに呆然としてしまう。どうすれば、それを舞台の上に乗せればいいのだろうか。 答えは一つ。 俳優がその中に入って、その心に起こったことを体験するしかない。 テーマの説明、ストーリーの説明、人物の説明、そんな演劇から遠く離れなければならない。 イプセンは、その人物の枠組みだけを示しているに過ぎない。 イプセンは、その人物たちについて、どんな批評も解説も説明もしていない。どんな人間なのかということについては、空白のままなのだ。 極めてリアルで、存在感を感じるのだが、その実態は、空白で曖昧なのだ。 イプセンを演じるとは、つまりその暗闇に閉ざされた空虚な建物の中へ入っていくことなのだ。そして俳優は心の中に起こることという明かりを手がかりに、その巨大な迷宮の中を彷徨うしかないのだ。 ある時、ふとひらめいた。 タニノクロウに、イプセンという迷宮を彷徨わせてみよう。 彼の目には、あの悲惨でグロテスクな人生という泥沼は、どのように映るのだろうか。 演劇とは自分と向き合うことであり、人間と向き合うことである。 イプセンの世界はまさにそうだ。 タニノクロウの一方の職業は、心理学者である。 つまり、自分の心を覗き込み、人の心と対話するのが彼の仕事なのだ。 イプセンとタニノクロウ、これはなかなかスリリングな出会いと言えないだろうか。 わたしの中のイプセン タニノクロウ わたしが「庭劇団ペニノ」で追い求め来たのは、人間の心の不思議です。 イプセンという人が描いた「野鴨」の世界を覗き込んだ時、その不思議の深さに眩暈がするほど感動しました。 イプセンが描いているノガモとは、夢の世界を生きている架空の生き物です。 そのノガモは、ある時、現実という銃弾に当たって飛べなくなってしまう。 わたしは精神分析医でもあります。 一体、そういう人間をどこほど沢山見てきたことでしょう。 心を打ち砕かれても、命は生き続け、人生を終えるわけにはいかないのです。 そういう人間に一体どうすれば、勇気と誇りと、愛と夢を持たせることが出来るのでしょうか。 イプセンはおそらくそういうことを、この作品を通して語っているのだと思います。 「野鴨」では一人の少女の死が描かれています。 そして、このドラマに登場するすべての人間がその事件の当事者です。 わたしは、ここには誰も悪人はいないと考えています。 しかし、悲劇は起こるのです。 イプセンは何という強大な迷宮を作り上げていることでしょう。 わたしはそこに迷い込み、果てしなく探検したいと思っています。 少女の死という事件に、わたしなりのメスを入れてみたいのです。 この「野鴨」には、わたしが、演劇という行為を通してやりたかったすべてがあると思っています。 石田えり 今度、イプセンの「野鴨」という舞台に出演します。 わたしが演じるのは、ギーナという女性です。 外から見ると悲惨そのものと見える家庭です。 心が壊れてしまった痴呆の老人、発明という現実性のない夢ばかり見てまともに働こうとしない夫、そして他の男との無理やりな関係の間に生まれた娘・・・ その中で彼女は、何とか生活のための金を工面し、みんなの面倒を見て愚痴ひとつ言わず、黙々と働き続けている。 わたしは彼女は、大きな夢を持って、人生を始めようとした女性だと思っています。 また、彼女は、大きな愛を持った女性だと思っています。 写真の学校へ通っていたことがある。 当時、まだ目新しい写真の技術を身につけて、自立したいと考えていたのでしょう。 しかし、実際はお金持ちの病弱な妻の看護婦のような仕事につくことになる。 その主人というのが、女好きで、さっそく彼女に目を付けて追い回す。 妻は嫉妬で気が違ったようになり、その家を出ざると得なくなる。 それでも、その男は、彼女を追いまわす。 彼女の母親の話が少し出てきます。 どうもその男との間は、母親がお金に目がくらんで、取り持ったようです。 そして妊娠、その妊娠を隠すための結婚・・・ そうやって、彼女の夢も愛も、行き先が見つからず、どんどんとしぼみ、汚れていったのだと思います。 しかし現実の中で、力強く復活していきます。 その悲惨な家庭の中の、難破船の勇敢な船長が彼女なのです。 その場所で、彼女は、夢と愛を、作り出そうとしていくのです。 この「野鴨」という作品を読み込んでいくと、イプセンという作家はなんと途方もない作家なんだろうと、つくづく思います。 あまりにも深いのです。 そこでもうあまり考えるのはよそうと今は思っています。 とにかく、そのギーナの中へ入っていってみよう。 そしてギーナとして生きてみよう。 そう、思っています。 ■足立朝日に「野鴨」の情報が掲載されています。 ▲ページTOPへ |